遺言
遺言が無効になる場合
認知症などで判断能力が低下した人の遺言をめぐる争いはドイツでもしばしば起こります。ドイツ民法は遺言の能力について次のように定めています。
病的な精神活動の障害、精神衰弱又は認識障害によって自己の意思表示の意味を理解し、かかる理解に基づいて行動することができない者は、遺言をおこなうことができない
こうした状況にある者がおこなった遺言は無効です。このため、遺産裁判所が相続証明書を発行する際も、遺言者に遺言をおこなう能力が欠けていたことを示唆する事情があれば、その点について職権で調査し、遺言の効力について判断しなければなりません。裁判所は、遺言の作成に関与した公証人からの聞き取り、医療記録の取り寄せ、専門家の鑑定などをおこなって、遺言者に遺言能力があったか否かを調べて判断を下します。
ただし、相続証明書の発行に関しておこなった遺産裁判所の判断は、遺言の有効性について終局的な決定をおこなうものではありません。遺言の有効性については、相続関係者の間で争われる民事訴訟のなかで既判力をもった判決が下されます。この民事訴訟では、遺言の無効を主張する側が遺言者の意思能力を欠いていたことを証明する責任を負う、とされています(判例)。ただし、遺言をおこなった時点の無能力まで証明する必要はなく、その前後の時期に無能力であったことを証明すれば足りるとされています。この証明がなされた場合、遺言の有効性を主張する側でそれを覆さなければなりません。
老人施設のための遺言は無効になる
遺言能力以外の理由で遺言が無効となる場合もあります。実務上重要になるのは、老人施設の運営者にとって有利になる遺言です。
入居者法(Heimgesetz)1では、入居施設の運営者や従業員が合意した対価を超える金銭の支払いを入居者に約束させることを禁止しています。施設への依存心を利用して、入居者の財産が不当に処分されることを防ぐためのものですが、こうした法の趣旨に照らし、入居している老人施設にとって利益となる内容の遺言(と相続契約)は無効になると解釈されています。
相続の開始後に遺言が取り消されることもある
錯誤によって作成された遺言は取り消すことができます。
遺言の取り消し(Anfechtung)は相続開始後に遺言が取り消されることを指しています。つまり、取り消しを行うのは遺言者本人ではなく(遺言者は遺言を撤回すれば済む)、遺言の取り消しによって直接、利益を受ける者です(2080 条)。例えば、遺言が無効であれば遺産を相続する立場にある法定相続人がそれにあたります。
遺言の取り消しが認められるのは以下の場合です(2078 条)。
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真意に基づかないで表示を行ったとき
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出来事が起こる/起こらないという誤った認識又は期待に基づいて遺言をしたとき
前者は意思の表示における錯誤で、遺言書を作成するときの書き間違い、言葉の意味についての取り違いなどを対象とします。ただし、遺言者がもし事情を知っていたら遺言を行わなかっただろう、と認められることが要件とされています。
後者は動機の錯誤に関するもので、実務上はこちらが重要です。民法の相続規定にも錯誤を理由とする意思表示の取り消しを認める規定(119 条)がありますが、遺言の場合は取り消せる範囲がより広くなっています。取引行為における意思表示とは違って、遺言の場合は保護すべき取引相手がいないためです。遺言書に動機が表示されている必要もありません。遺言者が誤った事情を具体的に想定していたことも不要で、正しい事情を知らなかった(考えもしなかった)ことで足りるとされています。遺言後に遺言者が予期しなかった事情が発生し、遺言の前提が失われたケースも、遺言の取り消し理由になります。
取り消しの方法は、遺言の内容によって変わってきます。まず、相続人の指定、廃除、遺言執行者の任命に関する遺言については、遺産裁判所に対して取り消しの申述(申し立て)をおこないます。ただし、取り消しの申述を受けた遺産裁判所が取消事由の有無を審査・判断するのは、相続証明書の発行の申請があったときに限られます。その他の場合、例えば遺贈を行う遺言の場合は、遺言によって直接、利益を受ける者に対して取り消しを通知します。どちらの場合も、取り消しの請求者が事情を知った時から 1 年以内(相続開始から 30 年以内)に申述・通知を行わなければなりません(2082 条)。
遺言の取り消しの効力に争いがある場合は、民事訴訟のなかで裁判所が判断を下します。裁判所が取り消し事由があると認めれば、遺言は作成時に遡って無効となります(遺言の一部だけが無効となる場合もあります)。
遺言解釈のルール
遺言の解釈は、遺言の文言を通じて被相続人が欲したことを探求することとされています。しかし、文言からどこまで離れることが許されるのかは悩ましい問題です。ドイツの民法には、遺言の解釈に関する準則がいくつか定められているので紹介しましょう。
‐ 複数の解釈が可能な場合 → 遺言が法的効果を失わない解釈を優先せよ(2084 条)
‐ 『子』を相続人に指定したが、子が相続開始前に死亡した場合 → 子を代襲する卑属を指定したと解釈せよ(2068 条)
‐ 『法定相続人』を相続人に指定した場合 → 相続開始時の法定相続人を意味すると解釈せよ(2066 条)
‐ 配偶者(・婚約者)を相続人に指定した場合 → 相続開始前に離婚(・婚約解消)されたときは無効とせよ(2077 条)
最初の準則は一般的な解釈の基準です。このルールが実務上、最も重要な意味を持っています。できるだけ遺言が法的な意味を持つように解釈するという原則です。遺言者は法的(経済的)な効果を欲して遺言を書いたはずだ、ということがその根拠とされています。
最後の準則はこれとは正反対に、「相続人の指定は無効としなさい」という解釈基準です。離婚や婚約破棄をしたのに、相続人としての立場は残しておく、というのは通常はあり得ません。たとえ離婚にまで至っていなくても、相続開始前にすでに離婚の前提(一定期間の別居など)を満たしており、かつ、遺言者が離婚を申し立てていた場合も相続人の指定は無効となります。この場合、配偶者は法定相続権も失います(1933 条)。ただし、遺言者が離婚にかかわらず引き続き相続人として指定することを意図していたと推測させる事情があれば遺言は引き続き有効とされます(2077 条 3 項)。
2 番目と 3 番目にあげた準則は、相続人の指定に関するものですが、民法にはこれに類する規定が他にもいくつか定められています。「遺言による相続割合の指定をめぐる問題」のところで説明しましたが、遺言者が法定相続にならないように相続人を指定したものの、指定した人の一人が相続開始前に死亡してしまった場合、亡くなった人の相続割合を残った相続人に振り分けることにしています(2094 条)。これも遺言者の通常の意思を反映した遺言解釈の規定です。
ドイツ民法では、「相続人の指定か遺贈か」という点の解釈も重要な意味を持っています。日本の民法とは違って、遺言によって個別の財産を特定の人に取得させることはできません。遺言者が定められるのは、相続人を指定すること、遺贈という負担を相続人に課すことのどちらかです。ところが、自筆遺言では「〇〇の財産は〇〇に渡す」などの文言がしばしば用いられます。遺言者にとってはごく自然なことだと思いますが、制度とのギャップをどう埋めるのかが問題になります。
これはドイツ民法に特有の問題ですが、非常に悩ましい論点のひとつです。民法には、「全財産またはその一部を与える」と書かれている場合はたとえ「相続人」という言葉が使われていなくても「相続人の指定である」、逆に「個別の財産を与える」と書かれている場合はたとえ「相続人」という言葉が使われていても「遺贈である」、という解釈のルールが定められています(2087 条)。しかし、たとえ個別の財産であっても遺産の大半をなすような財産であれば、与えられた人を相続人として指定したと解釈しています(判例)。そのほうが遺言者の意思に合致していますし、財産を与えられた人も財産に対する直接の権利を得られるからです(「遺贈」と解釈すると、受贈者として相続人に対し遺産の引渡しを請求する必要が出てくる)。
遺言の解釈は実務家にとっていわば永遠の課題ですが、ドイツではかなり踏み込んだ解釈をおこなっていることがお分かりいただけると思います。
脚注
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連邦の入居者法(Heimgesetz)14 条 1 項は、「運営者は、施設の入居者または入居希望者から、合意した対価を超える金銭または金銭的給付を受けることを約束又は求めてはならない」と定めています。老人施設、介護施設、障碍者施設が対象です。2006 年の制度改正で、立法権限が州に移行しましたが、州法が制定されていない場合は連邦入居者法が引き続き適用されます。州法を制定した州でも、州法の内容は連邦入居者法とほぼ同様のものになっています。 ↩